7594d7526d5b919b7966f64b15f35052.jpg

家元会員morohi様

平安時代の女房とその文学についてご紹介していきます

どっちがリア充?平安時代女房の恋愛事情―紫式部と大弐三位の場合


平安時代の女房は、複数の恋愛と結婚を経験している場合が多いといえます。

清少納言も、最初の夫橘則光との間に、則長という息子をもうけ、その後藤原棟世という男性との間に、小馬命婦という呼称で彰子に仕える女房をもうけています。

赤染衛門も、大江匡衡と結婚する前に、大江為基という男性と関係を持っていたことが知られます。

和泉式部も、恋多き女性として有名ですね。
橘道貞との間に小式部内侍をもうけ、その後、為尊親王と恋愛関係となり、為尊親王が若くして亡くなると、弟の敦道親王と恋に落ち、親王の邸宅に引き取られることになります。
(為尊親王との関係は『和泉式部日記』にほのめかされていますが、フィクションとする説もあります)
敦道親王も亡くなると、彰子のもとに出仕し、最終的には藤原保昌の妻となります。

さて、紫式部なんですが……。
この人は当時の女房としては珍しく、藤原宣孝しか夫として明らかな存在はいません。
結婚したのが当時としては遅い20歳過ぎだったので、その前に他の男性と恋愛をしていた可能性は高いのですが、継続的な関係にはどうも至らなかったようなのです。
『紫式部集』や『紫式部日記』を読むと、やや「めんどくさい女」だったようなので、長続きしなかったのかもしれませんね。
もっとも、『紫式部日記』には、藤原道長らしき人が、局(個室)の戸を叩いた場面が描かれていることから、「藤原道長妾」とする説もあるのですが、これも推測の域を出ません。

それに引きかえ、娘の大弐三位賢子の経歴は華やかです。
まず若い頃に、当代一流の文化人である藤原公任の嫡男、定頼と恋愛関係にあったことが、その家集『藤三位集』によって明らかになっています。
これは、赤染衛門や清少納言、紫式部が受領層の男性と恋愛・結婚をしているのとはレベルが違うことになります。
さらに、女房として出仕してからは、源朝任に口説かれ、左衛門督藤原兼隆との間に子どもをもうけ、そのことから後冷泉天皇の乳母になります。
30代になってからは、受領の高階成章と結婚しますが、このあたり、若い頃はイケメン俳優と付き合って、30代で起業家と落ち着いた結婚をする…みたいではありませんか?

紫式部は『源氏物語』で有名ですが、リア充度は、娘の大弐三位賢子の圧勝、のようですね。

12

母と娘の『源氏物語』


平安時代の女性歌人には、親子で歌人、という例が多いのですが、今回は紫式部とその子の話をいたしましょう。

『源氏物語』が、紫式部によって書かれたことは有名ですが、その紫式部には、娘がいました。
少し古典に詳しい人なら、知っているかもしれません。
「大弐三位」という呼称で、百人一首にも「有馬山猪名の笹原風吹けばいでそよ人を忘れやはする」という歌が選ばれています。

彼女の本名は藤原賢子。
おそらく「かたこ」と読むのでしょうが、当時の女性の名前の読みはわかっていないので、便宜上「ケンシ」と音読するのが普通です。
当時の女房歌人で、本名がわかっている人はとても少ないのですが、彼女はその貴重な一人です。

私はかつて、「大弐三位の出仕時期―女房呼称と家集から―」(和歌文学研究 一〇四 一〇一二年七月)という論文で、大弐三位の出仕時期について考察しました。
また、古典ライブラリーの『和歌文学大事典』の大弐三位の項も、執筆させてもらっています。

大弐三位こと藤原賢子は、母紫式部の没後、22、3歳の頃までに、かつて母の出仕先であった、皇太后藤原彰子のもとに出仕して「越後の弁(えちごのべん)」と呼称されていました。
その後、男性官人との間に子をもうけ、後冷泉天皇の乳母となりました。
したがって『栄花物語』などでは「越後の弁の乳母」あるいは単に「弁乳母」と呼称されるようになります。
後冷泉天皇が即位すると、典侍(ないしのすけ)になり、三位という位まで至ります。
母の紫式部にはできなかった、大出世といえるでしょう。

彼女はその後「大弐三位」と呼ばれるようになりますが、「大弐」とは、彼女の夫高階成章の官職「大宰大弐」からきています。
苗字の藤原をとって、「藤三位」と呼称されることもありました。

『栄花物語』によれば、後冷泉天皇の時代は、歌合などの風流なイベントが多く、それも全て乳母である藤原賢子の指導の成果だとされています。
時代の流行をつくる女性だったというわけですね。

紫式部の娘は、母のように物語は残していないようですが、和歌の才能に優れていて、私家集『藤三位集』と、その断簡である「端白切(はたじろぎれ)」を残しています。
その中に『源氏物語』の内容をふまえた贈答が見えるのです。

中周子氏「大弐三位賢子の和歌―贈答歌における古歌摂取をめぐって」(樟蔭女子短期大学紀要 文化研究 一三 一九九九年六月)によって指摘されているのは、次の贈答です。
   
   同じ人、黒戸のかたに立ちあかして、つとめて
 知るらめや真屋の殿戸のあくるまで雨そそきして立ちぬれぬとは(端白切・八)
   返し
 いとほしとなににかかけん雨そそき真屋の殿戸に濡ると聞く聞く(端白切・九)

前の歌の詞書に「右兵衛督朝任、頭なりし頃」とあるので、「同じ人」とは、源朝任という男性官人であることがわかります。
右兵衛督源朝任が頭中将であったのは寛仁三年(一〇一九)十二月二十一日から治安三年(一〇二三)、「黒戸」とは、内裏清涼殿の北、弘徽殿に延びる廊へ出る黒戸のことで、当時の女房たちの個室になっていました。

「雨そそき」という言葉がありますが、この言葉は、この催馬楽を踏まえた『源氏物語』の二例にしか使われていません。
いずれも、恋人を訪ねてきたものの、雫に濡れつつ待たされている場面です。
朝任は、その『源氏物語』をふまえて、作者の娘、賢子を口説いたということになりますし、それがわかった上で、賢子はその口説きをかわしているのです。

あの『源氏物語』の作者の娘として、出仕を要請されたわけですから、周りからの期待も半端ではなかったでしょう。
プレッシャーもあったに違いありません。
しかしそのプレッシャーを跳ね返すだけのすぐれた和歌を、彼女はしっかり詠むことができたのでした。

そんなわけで、紫式部―大弐三位という母娘は、いずれも文学偏差値のとても高い母娘であるということがわかりますね。

次回は、紫式部と大弐三位のリア充ぶりは、どちらが勝ちか、考えてみたいと思います。

10

会員様のみ、続きを閲覧いただけます。

morohi
ユーザー名
morohi
ラ ン ク
家元会員
カテゴリ
文学・書物
趣味・特技
読書
登録日
2016-04-05
最終ログイン
2016-04-09


広げよう、家元の輪!
イイネ!